1855年にシューマンの《マンフレッド序曲》を聴いて、交響曲作曲を決意したといわれるブラームス。最初の交響曲の完成・初演は1876年。21年後です。紆余曲折がありました。
「新しい道」
デュッセルドルフのシューマンを訪ね、自作のピアノ・ソナタを披露したのが1853年秋。シューマンは久しぶりに、自分が創刊した音楽雑誌『音楽新報』に批評記事を執筆。これが有名な「新しい道」で、ブラームスを高く評価し世に知らしめました。
このなかでシューマンは、ブラームスのピアノ・ソナタを「偽装された交響曲」と呼び、交響曲に取り組むように促しています[注1]。でも、ブラームスにとって交響曲の作曲は、容易なことではありませんでした。
交響曲作曲の試み
1854年に書き上げた、2台のピアノのためのソナタ。交響曲に改変するアイディアが生まれオーケストレーションを試みますが、挫折。結局、1856年に完成するピアノ協奏曲第1番第1楽章に転用します。
また、9重奏のセレナード(弦楽器各1、フルート1、クラリネット2、ファゴット1、ホルン1)を交響曲にしようという試みも挫折。1858年に管弦楽のためのセレナード第1番に転用されました。
交響曲第1番の作曲経過
作曲の経緯は不明な点も多いのですが、交響曲第1番第1楽章の初稿(序奏部無し)は、1862年に書き上げられました。
また1868年にブラームスは、第4楽章序奏部でホルンが演奏するアルペンホルンの旋律を、クララ・シューマンの誕生日を祝う手紙の中に書き込んでいます。「山の頂から、谷の深みから、あなたに幾千回も挨拶を送る」という歌詞付きでした。
オーケストレーションの練習
そして1873年には、2台のピアノのために作曲したいわゆる《ハイドンの主題による変奏曲》をオーケストラ用に編曲することで、オーケストレーションの技術を確認。交響曲の完成へと進みます。
交響曲第1番の初演は1876年11月1日、カールスルーエで、オットー・デッソフ指揮バーデン大公宮廷管弦楽団によって行われました。
西洋音楽史におけるブラームスの交響曲第1番の意義
シューマンの交響曲第3番《ライン》が1851年に初演された後、交響曲の創作は停滞期に入ったとみなされていました(ちなみにシューマンの交響曲第4番は、「交響曲の年」1841年に2作目として作った交響曲を1851年に改訂したものです)。
ブラームスの交響曲第1番は、四半世紀間続いたこの停滞期を終了させ、ブルックナーやマーラーも連なる「交響曲の第2の大波」(音楽学者ダールハウスの言葉)を引き起こす大きな役割を果たしました。
古典的なジャンルである交響曲を復活させる一方で、ブラームスがソナタ形式に手を加え、新たなやり方で用いたのは、008 009 010 で見たとおりです。
シューマン:マンフレット序曲
注
- 三宅幸夫『ブラームス:交響曲第1番ハ短調作品68、ミニチュア・スコア解説』音楽之友社、2003、p.iii。コラムの他の部分も、pp.iii-vを参考にしています。
- Johannes Brahms portrait 1889. https://youtu.be/B-OiqEMFLZI hr-Sinfonieorchester Marek Janowski.
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。