フェリックス・メンデルスゾーンの業績として絶対に忘れてはならないのが、《マタイ受難曲》復活上演。
当時、初演から100周年と考えられていた1829年3月11日にベルリンで、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの《マタイ受難曲》を演奏しました[注1]。バッハの死後、社会から忘れ去られていたこの作品の蘇演は大きな話題を呼び、「バッハ・リバイバル」のきっかけとなります。
《マタイ受難曲》とは
《受難曲》は、新約聖書冒頭の4つの福音書に含まれる、イエス・キリストの受難と死を伝える部分を題材にした音楽。復活祭前の聖金曜日(やそれを含む聖週間)に演奏されます。
バッハの作品としては、マタイによる福音書26、27章に基づく《マタイ受難曲》 BWV244と、ヨハネによる福音書18、19章に基づく《ヨハネ受難曲》 BWV245の2曲が現存します。
このうち《マタイ受難曲》は、二重合唱と2群の器楽アンサンブルを必要とする大掛かりな作品で、演奏には3時間近くを要します。バッハの宗教観、宗教音楽観が反映された大傑作ですが、彼の死後、次第に忘れられてしまいました。
メンデルスゾーンと《マタイ受難曲》
問1:忘れられていた《マタイ受難曲》をフェリックスが知ることになったのはなぜ?
14歳(1823年)のクリスマスに、《マタイ受難曲》の楽譜をプレゼントされたから
問2:いったい誰が、フェリックスに《マタイ受難曲》の楽譜をプレゼントしたか?
フェリックスの母方の祖母、バベッテ・サロモン
問3: なぜ彼女は、当時ほとんど忘れられていたバッハの大曲を知っていたのか?
バベッテ・サロモンの妹(フェリックスの大叔母)サラ・レヴィは、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの長男ヴィルヘルム・フリーデマンと次男カール・フィリップ・エマヌエル(086《音楽の捧げもの》を巡って①と、087 ②参照)の弟子だったからこのためフェリックスの母方の家系は、バッハが一般に忘れられていた時代にも、バッハの音楽に接する機会がありました。サラ・レヴィはもちろんバベッテ・サロモンも、バッハの崇拝者でした。
また、フェリックスの父で銀行家のアブラハム・メンデルスゾーンは、数多くのバッハの自筆譜やオリジナル・パート譜を、ベルリンのジングアカデミーに寄贈しています。バッハの死後、次男カール・フィリップ・エマヌエルが所蔵していたもので、彼の死後遺族によって売りに出されたのを買い取ったのでした。
このジングアカデミーの指揮者ツェルターに音楽理論などを学んでいたフェリックス(088 メンデルスゾーンはどのように育ったか参照)は、11歳から合唱団に加わりました。これらの楽譜を使ってバッハの声楽曲を演奏することができたのです。
バベッテ・サロモンがフェリックスにプレゼントした《マタイ受難曲》の楽譜は、おそらくツェルターが所有していた譜面を、エドゥアルト・リーツ(フェリックスのヴァイオリン教師になった人物)が筆写したと考えられます[注2]。
孫の14歳のクリスマスに、忘れられた傑作の楽譜をプレゼントしたおばあさん。楽譜からその未知の大曲に魅了されたフェリックス。
彼は忘れ去られたこのバッハの音楽を公開演奏することによって、広く人々に知らしめたいと考えるようになります。しかし、実現までには紆余曲折がありました(続く)。
《マタイ受難曲》の自筆スコア第1ページ(ベルリン国立図書館蔵) |
- 現在では初演は1727年で、1729年は再演と考えられています。今回のコラムは、以下を参照しました。小林義武「『マタイ受難曲』の蘇演」、『バッハ復活』(東京:春秋社、1997)、2-48。
- Todd, R. Larry. "Mendelssohn, Felix," in The New Grove Dictionary of Music and Musicians, 2d ed., ed. S. Sadie and J. Tyrell (London: Macmillan, 2001), 16: 389-424, 392. 上記の本で小林は、「1823年に14歳のメンデルスゾーンが祖母から贈られた筆写総譜は、(中略)ベルリン合唱協会が所有していたオリジナル・パート譜をもとにしたものである」と書いています。前掲書、6。
- Ölporträt Felix Mendelssohn Bartholdys, gemalt 1846 von Eduard Magnus.
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