ボロディンが1869年4月にシナリオを受け取り、断続的に作曲し続けていた歌劇《イーゴリ公》。でも、《イーゴリ公》序曲を作ったのは、ボロディンではありません。彼は1887年にオペラ完成にはほど遠い状態で、台本も完全にまとめないうちに亡くなってしまいました[注1]。
オーケストレーションが終わっている曲もありましたが、ピアノ譜が完成しただけの曲や、断片的な下書きしかない曲も。それら遺稿を集めて補筆し、オペラとして完成させたのが、リムスキー=コルサコフとグラズノフ。
序曲は、「ボロディンが残した記録と、彼の即興演奏をしばしば聴いていた記憶をもとに、グラズノフが作曲」とオーケストレーションを担当しました[注2]。
リムスキー=コルサコフはロシア五人組の一番若いメンバーで、聖フィルでも以前《シェエラザード》を取り上げた作曲家です(001 《シェヘラザード》冒頭の和音の意味は?参照)。ペテルブルク音楽院の教授になり、五人組の他のメンバーたちの作品を「補筆」して夜に出す役割を果たしました。
それでは、五人組に入っていないグラズノフって、どんな人でしょう? 《四季》から〈秋〉の吹奏楽バージョンしか知らないなあと思って調べてみました。
アレクサンドル・グラズノフ
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| Portrait of the composer Alexander Glazunov. Ilya Repin, 1887 |
1865年サンクトペテルブルク生まれなので、1835〜44年生まれの五人組のメンバーより一世代若い作曲家です。後期ロマン派のひとり、1964年生まれのリヒャルト・シュトラウスと1歳違い。
神童だった
グラズノフは並外れた耳と音楽的記憶力に恵まれ、早くから音楽的才能を示したそうです[注3]。五人組のリーダー、バラキレフに見出され、1879年から1881年にかけてリムスキー=コルサコフから対位法、形式、和声学、管弦楽法のプライベート・レッスンを受けます。1881年から82年にかけて、最初の交響曲を作曲。1882年3月29日、バラキレフの指揮でペテルブルクで初演され、大成功を収めました。このときグラズノフ、16歳!
ペテルブルク音楽院の教授→院長
1899年にはサンクトペテルブルク音楽院の教授に任命されました[注4]。しかし、1905年(血の日曜日事件を発端にロシア第1革命が起こった年)4⽉4日、ストライキ中の学⽣に同情的だったリムスキー=コルサコフの解任に抗議して、辞任。12⽉14日、⾃由主義的な教授たちの要求のほとんどが満たされたことを受け、復職。その2日後、音楽院の院長に選出され、(1928年に⻄ヨーロッパへ移住したものの)1930年までその院長職を務めました。
注
- この間の事情は、以下の資料に詳述されています。森田稔「アレクサンドル・ボロディン:オペラ《イーゴリ公》より序曲、ポロヴェツ人の行進、解説」『Zen-on Score, "Prince Igor," Overture and Polovtsian March』(東京:全音楽譜出版社、2022)。
- 同上、5〜6ページ。
- グラズノフの生涯については、以下の資料に基づきます。Schwarz, Boris. "Glazunov, Aleksandr Konstantinovich," in The New Grove Dictionary of Music and Musicians, 2d ed., ed. S. Sadie and J. Tyrell (London: Macmillan, 2001), 9: 938-941. この英語の音楽事典におけるグラズノフの記述が、作品表なども含めてわずか3ページであることに驚かされました。
- 都市名の改称に伴い、音楽院も第1次世界大戦後にペトログラード音楽院、ロシア革命後はレニングラード音楽院と改称されます。
- 1993年にボロディン生誕160年を記念して発行されたロシアの1ルーブル記念硬貨。Portrait of the composer Alexander Glazunov. Ilya Repin, 1887 (Oil on Canvas, Russian Museum).


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