見出しを見て、ハンスリックって誰?と思われた方が多いと思います。ウィーンで活動したエドゥアルト・ハンスリックは、19世紀後半のドイツ語圏で(良くも悪くも)大きな影響力を持った音楽評論家。
この時代、保守派と革新派の論争が続きます。ハンスリックは保守派の代表としてブラームスを高く評価。「新ドイツ派」と呼ばれた革新主義者たちを激しく攻撃しました。
主著は、1854年に出版された『音楽美について Vom Musikalisch-Schönen(邦訳:『音楽美論』)。有名な一節が:
音楽の内容とは鳴り響きつつ動く形式
(音楽学概説でこれを習ったとき、わけがわからず呆然としたことを思い出します。「内容は形式である」って言われても……)
西洋音楽史でロマン派を教えるときに、必ず言及する論争と人物ですが、今回改めて彼について調べてみたら、知らなかったことがたくさんありました[注1]。
ハンスリック Eduard Hanslick(1825〜1904)
- 1825年生まれ(今年生誕200年!)
- プラハ生まれ(この時代もオーストリア帝国領)
- 父は初め司祭になる訓練を受け、その後「哲学、美学、⾳楽の研究に身を捧げることを決意した」
- その父は、宝くじに当たったことがきっかけで(!!)、ピアノの教え子の一人である、裕福なユダヤ人商人の娘と結婚することができた(母は結婚を機にカトリックに改宗)
- 本人はしっかりした音楽教育を受けたが、公務員職に備えて法学を学ぶ
- 1849年にウィーン大学で、法学の学位取得。それ以前から、ウィーン内外の雑誌や新聞に音楽評論を寄稿。その中になんと、ヴァーグナーの《タンホイザー》に対する「熱烈で詳細な」批評(Wiener Allgemeine Musik-Zeitung)が含まれる
後年、ヴァーグナーと対立(と言うか敵対)したことを思うと、これは驚きですね。
- 1861年にウィーン大学で、音楽史と音楽美学の教授になる。音楽の分野で最も早く大学の公式職を受けた人の一人
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| ハンスリックのポートレート、1894 |
標題音楽 vs. 絶対音楽
交響詩を創始したリストや、楽劇を書いたヴァーグナーら「新ドイツ派」の作品は、他の芸術(文学や美術など)の要素と結びついていて、標題音楽的です。若い作曲家たちに支持されていました。
ハンスリックは、当時の音楽と感情についての曖昧な考え方を是正しようとし、音楽が音だけで構成され、その美しさは音と音の関係や形式の中にあると考えました。音以外の要素を含まない音楽(たとえば交響曲、協奏曲、室内楽など)は、絶対音楽と呼ばれます。
彼は、新ドイツ派の音楽を音以外の要素が入っている不純なものとみなし、厳しく批判。一方ブラームスの音楽を、ドイツ音楽の伝統(特にベートーヴェンの伝統)を受け継ぐものとして擁護しました。
標題音楽 vs. 絶対音楽の争いは、具体的にはヴァーグナー派とブラームス派、実質的にはヴァーグナーとハンスリックの対立。19世紀後半のドイツ・オーストリアの音楽界を二分する大論争に発展します。
論争のおまけ
ブルックナーはブラームスと同様、劇作品や標題音楽を一切作曲しませんでした。それにもかかわらずハンスリックは、ブルックナーがヴァーグナーに傾倒(交響曲第3番を献呈)したためにヴァーグナー派と見なし、敵視し続けます。
ヴァーグナーは自身の《ニュルンベルクのマイスタージンガー》に登場するマイスタージンガーの一人、旧習に囚われ新しい考えに背を向ける、威張っているけれど歌が下手なベックメッサーを、ハンスリックのカリカチュアとして描いたと言われています。初期段階ではベックメッサーには、「ファイト・ハンスリッヒ Veit Hanslich」という名前が与えられていました。
注
- このコラムは以下を参考にしました。Grey, Thomas. "Hanslick, Eduard," in The New Grove Dictionary of Music and Musicians, 2d ed., ed. S. Sadie and J. Tyrell (London: Macmillan, 2001), 10: 827-833.
- Johannes Brahms portrait 1889. ハンスリックのポートレート、1894年に出版されたAus meinem Leben より。


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