ハ長調のアルペンホルン風の朗々とした主題がホルンによって歌われ、序奏の第2部に入る。この主題はクララ・シューマンへの愛を表しているとされ、クララへ宛てた誕生日を祝う手紙の中で"Hoch auf’m Berg, tief im Tal, grüß ich dich viel tausendmal!"(「高い山から、深い谷から、君に何千回も挨拶しよう」)という歌詞が付けられている(ウィキペディア日本語版の「交響曲第1番(ブラームス)」より)
ブラームスの交響曲第1番終楽章に関するこの記述、誤りではないのですが……。「クララ・シューマンへの愛を表しているとされ」という部分は、ニュアンスが違うのです。状況を整理してみましょう。
クララとブラームス
クララ・シューマン(1819〜1896)はブラームスの恩人ロベルト・シューマン(1810〜1856)の妻。
1854年頃のクララ・シューマン |
1853年10月に「新しい道」と第する評論で20歳のブラームスを絶賛し、世に送り出したシューマン(ブラ1は突破口だった参照)は、その翌年2月にライン川に飛び込みます。自殺未遂でボン近郊の療養所へ。
当時クララは、8人目(!!)の子供を妊娠中でした。
ブラームスはデュッセルドルフへ駆けつけます。クララがコンサート・ピアニストとしての活動を再開(彼女は著名な女流ピアニストでした)できるよう子供たちの世話をし、ロベルトの面会に通い、クララを助けます。
ブラームスと、14歳年上のクララが非常に親しい間柄であったのは確かですが、実際に何があったのかはわかりません。彼らは、1858年までの書簡のほとんどを破棄したからです[注1]。
シューマンが56年に亡くなると、ブラームスは彼女の家から去ります。でも、彼らは生涯、音楽をよく知る友として交流を続けました。
アルペンホルンの旋律
完成までに、20年以上かかった交響曲第1番。作曲がどのように進んだのか、不明なことが多いのですが。
1862年7月にブラームスは、書き上げた第1楽章の初期稿(序奏部はまだありませんでした)をクララに送っています。
さらに1868年、ブラームスがクララの誕生日(9月13日)を祝う手紙に書いたのが、アルペンホルンの旋律(図1)。そこには「山の高みから、谷の深みから、あなたに幾千回も挨拶を送る」という歌詞が添えられていました。
図1:ブラームスがクララに宛てたカードより[注2] |
これが後に、ブラ1第4楽章序奏部のホルンの主題になります。
譜例1:ブラームスの交響曲第1番終楽章自筆譜 |
ちなみにアルペンホルンは自然倍音しか出せない楽器(図2参照)。旋律5小節目がファではなく、ファ#になっています(自筆譜に*を付けています)。
図2:アルペンホルン |
その後のクララとブラームス
1876年9月、バーデン・バーデン近郊のリヒテンタールでブラ1を完成したブラームス。同地に住んでいたクララに、9月に第1楽章と第4楽章を、10月には全楽章をピアノで弾いて聴かせています。
彼女はアダージオについて助言を与え、交響曲全体を評価しましたが、第3楽章と第4楽章の終わり方について不満を述べたそうです[注3]。同年11月4日の初演後、ブラームスは改訂を続け、最終稿が出版社に渡されたのは翌1877年5月のことでした。
シューマンが亡くなる前の、特に同居時代、ブラームスはクララに対してかなり熱い想いを抱いたとされ、それを表現していると言われる楽曲もあります。
しかしその後はシューマンへの恩義を忘れず、クララとは悲しみや喜びを分かち合い、音楽上のアドバイザーの1人として深くリスペクトし続けました。
というわけで
アルペンホルンの旋律が「クララ・シューマンへの愛を表している」という部分は誤りではないのですが、この旋律だけがそれを表しているというわけではありません。
また、広い意味での愛情、同士愛のような感情をイメージしていただければと思います。
注
- より正確に言うと、ブラームスは全て破棄しましたが、クララは数通残したのだそうです。ウィキペディア独語版 Clara Schumann 参照。
- https://www.nobleviola.com/wordpress/2013/05/20/brahms-tidbits/ より。
- ウィキペディア英語版 Clara Schumann 参照。
- Johannes Brahms portrait 1889. Unknown author, Clara Schumann about 1583. Hans Hillewaert, Alphorn player in Nendaz, Wallis, Switzerland.
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