先週、初めて宮田大さんをお迎えしてドヴォコンを練習しました。凄かったですよ〜!
今回のコラムはドヴォルザーク(1841〜1904)のチェロ協奏曲に込められた、ヨゼフィーナへの想いについて。
ドヴォルザークは無名であった1865年から、プラハで金細工師業を営むチェルマーク家の7人の子どもたちのうち、ヨゼフィーナ(1849〜1895、ヨゼファとも)とアンナ(1854〜1931)にピアノを教え始めます。
ヨゼフィーナとアンナ |
ヨゼフィーナは若いころから演劇に惹かれ、1862年からプラハの国民劇場仮劇場のメンバーとして活動していました。ドヴォルザークも仮劇場オーケストラのヴィオラ奏者を務めていましたから、彼らは同じ劇場で働いていたわけです。
ドヴォルザークは彼女を愛していましたが、想いは届きませんでした。
ドヴォルザークはヨゼフィーナへの想いを、彼の最初の歌曲集《糸杉》のなかに表現しています。1865年7月に作曲された17曲から成るこの歌曲集について、ドヴォルザークは「恋する若者の姿を想像してください、それがこの曲のすべてです」と述べています[注1]。
ヨゼフィーナ・チェルマーコヴァー |
ドヴォコンとヨゼフィーナ
1894年11月、ドヴォルザークは彼女が重い病気であるという知らせを受け、作曲中のチェロ協奏曲の第2楽章に、彼女のお気に入りだった自作の歌曲を引用します。
それが、4つの歌曲作品82の第1曲《私をひとりにして Lasst mich allein》(独奏チェロ、第2楽章39小節〜)。
第1節はこんな感じです[注2]。
夢の中を歩く私をひとりにして
私の心の中の切望を邪魔しないでください
彼に会ったときからの全ての歓喜と痛みで
私を満たしてください。
オクターヴ跳躍で始まる伸びやかなメロディー・ラインと、控えめながら雄弁なピアノ伴奏が、心の奥の激しい感情を表現します。
ヨゼフィーナは、ドヴォルザークがアメリカから帰国した直後の1895年5月に亡くなりました。
ドヴォルザークは既に完成していたチェロ協奏曲の、第3楽章449小節以降の4小節を除き、新しい60小節を書き加えます。遅く静かになった後、独奏ヴァイオリンが《私をひとりにして》を再び引用するのです。
《私をひとりにして Lasst mich allein》
協奏曲を初演するはずだったヴィハーン(ドヴォコン初演を巡って参照)は、ドヴォルザークとの試奏の際、第3楽章終わりのカデンツァ挿入を提案。ソリストですから当然、技巧を発揮する機会が無いまま終わってしまうのでは効果的ではないと考えたのでしょう(ヴィハーン自らカデンツァを作曲していました)。
しかし、ドヴォルザークは即座に拒絶。以下のように書いています。
フィナーレはゆっくりと息を吐くようにディミヌエンドで終わり、第1、2楽章の回想があり、ソロはppまで消え、それからクレッシェンドして、最後の小節はオーケストラが受け持ち、嵐のように終わります。それが私のアイデアであり、放棄することはできません。
ヨゼフィーナへの想いが込められたエンディングが、深い余韻を残します。あたかも彼女の墓碑銘のようです。
注
- 以下も含めて ”Comprehensive Dvořák Site” http://www.antonin-dvorak.cz/ の情報に基づく。
- 筆者による試訳(あまりうまくないですが)。全体は6連から成ります。Otilie Malybrok-Stielerによるドイツ語の歌詞に作曲され、その後チェコ語に翻訳されました。ジムロックは1888年に出版する際、ドイツ語とチェコ語、英語の歌詞も添えています。
- Antonín Dvořák by unknown author, 1882. Josefina and Anna Čermákovy, before 1890, unknown author. Josefina Čermákovy, before 1890, unknown author. https://youtu.be/PLLFPyGK0wc Marta Infante, mezzo-soprano, Jorge Robaina, piano.
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