046 ドヴォコン初演を巡って

2023/03/14

ドヴォコン ドヴォルザーク 協奏曲

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4月の聖フィル定期演奏会のメインは、宮田大さん独奏によるドヴォルザークのチェロ協奏曲!!!

そろそろドヴォコンに関するコラムを書こうと思ってネタを探していたら、ウィキペディア日本語版「チェロ協奏曲(ドヴォルザーク)」に不正確な記述を見つけました(西洋音楽史に関連する項目は、ウィキペディア英語版を使うことを強くお勧めします)。 

きっかけは同郷のチェロ奏者、ハヌシュ・ヴィハーンからの依頼である(中略)1895年8月にドヴォルザークのピアノ伴奏で試弾したヴィハーンは、ソロパートが難しすぎるとの感想を述べ修正を提案したがドヴォルザークは納得せず、カデンツァを入れようと言う提案には激怒。ついには世界初演をヴィハーンではなくレオ・スターン任せるといった一幕もあった。  

世界初演で独奏したのは確かにレオ・スターン(1862〜1904)ですが、作品の依頼主であるハヌシュ・ヴィハーン(1855〜1920)から変更したのは、彼が修正を提案してドヴォルザークが激怒したからではありません。

むしろ逆で、ドヴォルザークはヴィハーンに初演で独奏してもらう約束をし、その実現を強く望んでいました。 

チェロ協奏曲作曲の経緯

ハヌシュ・ヴィハーンはチェコのチェリストで、スメタナ(後のチェコ)四重奏団の創立者。彼はドヴォルザークに、チェロ協奏曲の作曲を依頼していました。 

ドヴォルザークがナショナル音楽院の院長としてニューヨークに滞在中だった1894年、メトロポリタン・オペラの首席チェリストで、作曲家のヴィクター・ハーバート(1859〜1924)が、彼のチェロ協奏曲第2番ホ短調作品30を完成。

3月9日に、彼自身の独奏でアントン・ザイドル指揮ニュー・ヨーク・フィルと初演しました。

ヴィクター・ハーバート

それまでチェロの高音域を、細くて鼻にかかった音とみなしていたドヴォルザーク[注1]

しかし、ナショナル音楽院の同僚ハーバートが、高音域を多用し優雅に弾くのを聴いて考えを改め、ヴィハーンにリクエストされていたチェロ協奏曲を作ります。

ハーバート:チェロ協奏曲第2番ホ短調作品30

作曲後にチェロ協奏曲の楽譜を見たヴィハーンは、2つのカデンツァを含む様々な「改良」を提案。しかしドヴォルザークはいくつかの小さな変更しか受け入れず、カデンツァは2つとも拒否しました(この理由に関わるヨゼフィーナと歌曲の引用については、来週書きます)。 

初演奏者を巡って 

ヴィハンの提案を拒絶したものの、ドヴォルザークは、ヴィハーンがこの作品を公開初演することを強く望み、彼にそれを約束していました。 

それでは、どうして彼以外のチェリストが初演したのでしょうか。

初演までの経緯

1895年11月にロンドンのフィルハーモニー協会の秘書フランチェスコ・バーガーがドヴォルザークに、彼の作品のコンサートを開くように依頼。

ドヴォルザークは承諾し、チェロ協奏曲の初演をヴィハーンをソリストに迎えて指揮することを提案。

バーガーは1896年3月19日を提案したが、その日はヴィハーンの都合が悪かった。

しかし、フィルハーモニー協会はこの日にこだわり、ドヴォルザークに相談することなく、イギリスのチェリスト、レオ・スターンを起用。

このためドヴォルザークは、渡英を拒否。手紙によると(図1参照):

親愛なる友人バーガー、私は残念ながら、チェロ協奏曲の演奏を指揮できないことをお知らせします。理由は、友人のヴィハーンと約束してしまったからです。彼は弾くでしょう。もし、あなたが協奏曲をプログラムに入れるなら、私は全く行かれないでしょう。別の機会に喜んで行きたいと思います[注2]。

図1:ドヴォルザークからロンドンのフィルハーモニー協会の秘書へ、チェロ協奏曲の世界初演をレオ・スターンに依頼することに反対する自筆の手紙(1896年2月14日)

My dear friend Berger,
I am sorry to announce you
that I cannot conduct
the performance of the
cello concerto. The reason
 is I have promised to my
friend Wihan – he will
play it.       
If you put the concerto
into the program, I could not
come at all, and will be glad
to come another time.
   With kindly regards
    sincerely yours
    Ant. Dvorak

ドヴォルザークは最終的に、ロンドンへ行って初演を指揮しました。理由はわかりませんが、クラハムはおそらくヴィハーンが、ドヴォルザークとの約束を反故にしてくれたのだろうと推測しています[注3]。 

ドヴォコンを初演することになったスターンはプラハに行き、ドヴォルザークの指導のもとで演奏を準備。 3月19日ロンドンのクイーンズ・ホールで、ドヴォルザーク指揮スターン独奏でチェロ協奏曲の初演が行われました。

ちなみにこのときスターンが弾いたチェロは、ストラディヴァリが1684年に制作した General Kyd でした。

  1. Steinberg, Michael. The Concerto: A Listener's Guide  (London: Oxford University Press, 1998), p.182. 
  2. 筆者訳。手紙は、Döge, Klaus. "Dvořák, Antonín," in The New Grove Dictionary of Music and Musicians, 2d ed., ed. S. Sadie and J. Tyrell (London: Macmillan, 2001), 7: 777-814, 795. 渡はチェロ協奏曲ミニチュア・スコアの解説でこの手紙を引用していますが、「理由は、友人のヴィハーンと約束してしまったからです。」部分を抜いているので、意味が通らなくなっています。渡鏡子「ドヴォルジャーク:チェロ協奏曲ロ短調作品104 B.191ミニチュア・スコア解説」(全音楽譜出版、2018)、8ページ。
  3. Clapham, John, Dvořák. New York: Norton, 1979, pp.148-149.  
  • Antonín Dvořák by unknown author, 1882. Undated photo of Victor Herbert, Bain News Service, publisher.  https://youtu.be/z6Q6Ud-AJU4  Marcelo Montes, Orquesta Sinfónica de Córdoba, Carlos Riazelo. 

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聖光学院管弦楽団第30回記念演奏会

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