027 リストの生涯②:リストとパリ音楽院

2022/10/18

エラール ピアノ リスト

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お別れ演奏会(026 リストの生涯①を参照)の後、リストは両親とともに1823年9月にウィーンを発ち、ミュンヘン、アウグスブルク、ストラスブール、シュトゥットガルトを経て12月にパリに到着。ピアノ会社を持つエラール家と、生涯続く友情を築きます。

社長のセバスチャン・エラールはリストに、新しく発明した「レペティション・アクション(ダブル・エスケープメント)」を備えた、7オクターヴの立派なグランドピアノをプレゼント。

鍵盤から完全に指を離さなくても次の打鍵ができるこのメカニズムのおかげで、速い連打が可能になりました。リストはその特徴を利用した難曲を作ることになります。 

パリ音楽院に入学できなかったリスト

リストがパリ音楽院の入学を断られた話は、広く知られています。父とエラールに連れられ、院長ケルビーニの面接を受けましたが、たとえリストのような有名人であっても、規則により外国人の入学は認められませんでした。

ケルビーニ自身がイタリア人で、しかもすでに留学生が在籍していたのですから不思議な話ですが、外国人が入学できないのはピアノ科だけ。ピアノ科に志願者が殺到するようになったからです。しかも数週間前に承認されたばかりの政令に基づく、新しい規制でした。

リストは父が雇ってくれた個人教師に就いて、理論や作曲を学びました。 音楽院に入学できなかったため、彼らは自由にコンサート・ツアーを続けることになります。

イギリス・ツアー

1824年には初めてイギリスに渡り、ロンドンでデビュー。エラール社の所有する宿舎に滞在し、エラールが提供してくれた最新のグランドピアノを演奏。ウィンザー城では国王ジョージ4世に、2時間以上にわたる御前演奏も。

翌年6月20日のマンチェスターでのコンサートでは、リストが作曲した「新しい大序曲」がオーケストラで演奏されました。すでに着手していたオペラ「ドン・サンチェ」の序曲です。このオペラは完成後、同年10月にパリで4日連続で上演されました。

リスト:歌劇《ドン・サンチェ》S. 476より序曲

 父の死

1527年8月、3度目のイギリス訪問から帰国。ブローニュで短い休暇に入った数日後、父アダムが腸チフスに罹患。あっという間に亡くなってしまいます。 

父を亡くした16歳のリストは、母と自分の生活を支える稼ぎ頭に。借金返済のためにエラールのグランドピアノを売り、フランス貴族の子弟にレッスンをして収入を得なければならなくなりました。 

リストは弟子のひとり、17歳の伯爵令嬢カロリーヌ・ド・サン=クリクと恋に落ちます。しかし、父である伯爵は、ふたりが夜遅くまで音楽のレッスンをしているのを見て「たかが音楽家」であるリストを屋敷から追放。間もなくカロリーヌは裕福な地主と結婚し、パリを離れました。

父の死とこの仕打ちによってリストは神経衰弱になり、1827年から8年間、演奏活動から遠ざかります。 彼を無気力から立ち上がらせたのは、1830年の七月革命。母は後に、「大砲が彼を治した」と述べたそうです。

  1. このコラムは以下の情報に基づきます。WalkerAlan. "Liszt, Franz," in The New Grove Dictionary of Music and Musicians, 2d ed., ed. S. Sadie and J. Tyrell (London: Macmillan, 2001), 14: 755-877. 755-757.
  • Portrait of Liszt by Henri Lehmann (1839).  https://youtu.be/qMaBhgVKgwE, Hungarian State Opera Orchestra, Tamas Pal.

演奏会情報

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聖光学院管弦楽団 第26回定期演奏会

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