14歳のクリスマスに、祖母からヨハン・ゼバスティアン・バッハの《マタイ受難曲》の筆写譜をプレゼントされたフェリックス・メンデルスゾーン(089 メンデルスゾーンと《マタイ受難曲》①参照)。彼はこの楽譜を研究し、演奏によって人々に、当時忘れ去られていたこの曲の素晴らしさを伝えたいと願うようになります。
しかし、20歳のときにそれを実現させるまでに、様々な障害がありました。
1. 師ツェルターの反対
《マタイ受難曲》の演奏には、人数が多く、上手な合唱団が必要です。フェリックス自身も属していたベルリン・ジングアカデミー(合唱協会)はその条件にピッタリ。でも、協会の会長(でフェリックスの音楽教師でもあった)カール・フリードリヒ・ツェルター(088 メンデルスゾーンはどのように育ったか参照)は、フェリックスが《マタイ受難曲》を演奏することに大反対し、合唱団の参加を許可しませんでした。彼は、これが難曲であることをよく知っていたからです。
「いったいお前たちは受難曲上演を子どもの遊びとでも思っているのか!」と怒鳴られ、あきらめそうになるフェリックス[注1]。一緒に行った友人(若手の有名歌手デブリント)がめげずにツェルターに頼み続け、やっと合唱団参加の許可を得ることができました。
2, バロック音楽の演奏伝統が途絶えていたこと
《マタイ受難曲》では、オーボエ・ダモーレという楽器が使われます。イタリア語で「愛のオーボエ」を意味するこの楽器は、バッハやテレマンなど18世紀ドイツで使われましたが、古典派時代には使用されなくなっていました。
フェリックスは代わりに、クラリネットを使いました。クラリネットは、モーツァルトの時代でも演奏できる人があまりいなかった、新しい楽器。《マタイ受難曲》には使用されていません。
フェリックスは古楽器の代用としてだけでなく、響きの補強のために、オーボエ・ダモーレが使われなかった曲のなかでも用いています(メンデルスゾーン版の《マタイ受難曲》を実際に聴いたことがありますが、バロック音楽におけるクラリネットの音色は、正直言ってかなり違和感があったことを覚えています)。
通奏低音楽器としては、ピアノが使われました。当時チェンバロは、博物館に行かなければ見られない楽器でしたし、《マタイ受難曲》を演奏するジングアカデミーのホールには、オルガンが無かったからです。
小林義武氏によると、「19世紀におけるバロック音楽の演奏では、ピアノを通奏低音楽器として使用することがむしろ普通であった」そうです。
3,聴衆への心配
《マタイ受難曲》は正味3時間。初めて聴く長い長い音楽に対して、聴衆が拒否反応を示すことを心配したフェリックスは、様々な変更を行いました。
アリアやコラール(コラールとは何か①参照)を削除し、演奏時間を短縮。また、重要な場面でのレチタティーヴォ・セッコ(通奏低音だけの伴奏によるレチタティーヴォ)を、より劇的なオーケストラ伴奏に変更しています。アルトからソプラノに変更されたアリアやレチタティーヴォもありました。
このような変更は、当時の人々に《マタイ受難曲》をよりドラマティックに印象付けるために、大きな役割を果たしました。
《マタイ受難曲》のインパクト
《マタイ受難曲》の蘇演は、1829年3月11日にベルリンのジングアカデミーで、フェリックスの指揮により慈善音楽会として行われました。大盛況で、大ホール以外に小ホールや玄関ホールにも聴衆が収容されたそうです。それでも約1000人が入場できず、3月21日と4月17日に再演されています。
この歴史的な復活演奏会は、ベルリンを中心としたドイツの知識層に大きなインパクトを与えました。フランクフルトやブレスラウなどドイツ各地で《マタイ受難曲》の演奏会が開かれ、人々がバッハの偉大さに気づくことになります。14歳で筆写譜をプレゼントされてから抱いていたフェリックスの夢が、実現!
ちなみに20歳のときの《マタイ受難曲》演奏会は、後にライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者になるフェリックスが、指揮者として初めて登場した公開演奏会でした。
- 今回のコラムも以下を参照しました。小林義武「『マタイ受難曲』の蘇演」、『バッハ復活』(東京:春秋社、1997)、2-48。
- Ölporträt Felix Mendelssohn Bartholdys, gemalt 1846 von Eduard Magnus.
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