アレクサンドル・ボロディンの歌劇《イーゴリ公》序曲を(実質的に)作曲したアレクサンドル・グラズノフ(115 《イーゴリ公》序曲の作曲者グラズノフ参照)。彼はドミートリイ・ショスタコーヴィチ(1906〜1975)の人生(特に初期)において、大きな役割を果たしました。
以下、ファーイの『ショスタコーヴィチ:ある生涯』を元にたどってみます[注1]。
ペトログラード音楽院入学前
ショスタコーヴィチが、ペトログラード音楽院の入学試験の準備をしていたときのことです。彼の両親は、13歳の息子がピアノ科と作曲科の2科目を履修すべきかどうか、確信を持てませんでした。
父は、有名なピアニストで指揮者のアレクサンドル・シローティ(ジロティ、1863〜1945)に頼んて、息子ミーシャ(ドミートリイ・ショスタコーヴィチの愛称)のピアノ演奏を聴いてもらいます。しかし、シローティが母親に伝えた評価は:
この子は成功しませんね。音楽的才能がありません。
というものでした。ドーミトリィは、一晩中泣き明かしたそうです。
両親は、別の人物にも評価してもらおうと考えました。それが、ロシア作曲界の大御所でペトログラード音楽院院長を務めていたアレクサンドル・グラズノフ。実は彼は、既にショスタコーヴィチのピアノを聴いたことがありました。
自作曲をいくつか聞いたグラズノフは、ミーシャが是非とも、ピアノと同時に作曲の勉強すべきだと伝えました。
この音楽院に、あなたの息子さんほどの才能をもった子どもがいた記憶はありません。
「モーツァルトにも引けを取らない才能の持ち主」という彼の評が、あっという間に音楽院中に広まったそうです[注2]。
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| サンクトペテルブルク音楽院、1913年 |
音楽院在学中
2年後、ドミートリイの父が突然肺炎で他界。蓄えも無かったため、働いた経験が無かった母ソフィアが働かざるを得なくなりました。姉マリヤも、15歳のドミートリイに教育を続けさせるために、ピアノの個人レッスンをして収入の足しにします。
良くないことは重なるもので、同じ頃、ショスタコーヴィチは首のあたりに痛みを感じるように。気管支炎とリンパ節の結核の診断を受けました。しかし、6月末のピアノ科の卒業試験は延期せず、首に包帯を巻いたまま演奏しました。
ソロ演奏会のプログラムはバッハの《平均律クラヴィーア曲集第1巻から嬰ヘ短調の前奏曲とフーガ、《ヴァルトシュタイン》、ショパンのバラード第3番、リストの《巡礼の年報》より〈ヴェネツィアとナポリ〉など、難曲揃い。
見事な演奏ぶりでしたが、翌日のシューマンのピアノ協奏曲は冴えなくて、賞を獲得することができませんでした。でも、グラズノフは:
洗練されており、気取りがなく真心がこもっている点で際立っている。
と、ショスタコーヴィチを高く評価したそうです[注2]。
ショスタコーヴィチとグラズノフ
グラズノフは音楽院の院長として、ショスタコーヴィチに限らず才能のある若者たちのために献身しました。病気で弱ったミーチャに特別の配給をもらうため、グラズノフらはソビエト教育人民委員に熱のこもった請願書を送りました。また、母ソフィアがピアノを含めた家財を売る必要に迫られたときも、グラズノフは緊急の嘆願書を教育人民委員会に送り、
このような人物が亡くなれば、芸術界は取り返しのつかない損失を被るだろう。
と警告しました[注3]。
ショスタコーヴィチはグラズノフや、音楽院での作曲の師シテインベルクを保守的とみなしつつ、様々な面で評価・援助してくれた彼らや彼らの作品に、敬意を払っています。
注
- ヴォルコフによる『ショスタコーヴィチの証言』(1979、アメリカ)はセンセーショナルな内容で話題になりましたが、ファーイによって疑問が投げかけられ、現在では偽書とされています。このコラムは、名前の表記を含めローレル E. ファーイの『ショスタコーヴィチ:ある生涯』(アルファベータ、2002)に基づきます。
- 同上、33ページ。
- 同上、40ページ。
- Russian composer Šostaković in 1925. Theatre Square and the conservatory, as seen in 1913.


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