聖フィル第30回記念演奏会で取り上げるシベリウスの交響曲第7番は、彼の最期の交響曲です。ハ長調という調性にも驚かされますが、何よりも単一楽章という構成が革新的です(これについては改めて書きます)。
この曲が完成、初演されたのは1924年。今からちょうど100年前ですね。
200年前の1824年は、ベートーヴェンが交響曲第9番を完成し、5月7日に初演した年。スメタナとブルックナーが生まれた年でもあります。日本は文政7年。
それでは100年前は? 日本は大正13年。阪神甲子園球場が竣工した年だそうです。
100年(くらい)前の西洋音楽
西洋音楽では、ラヴェルの《ボレロ》初演が1928年でした(ちなみにストラヴィンスキーの《春の祭典》初演はずっと早くて1913年)。
ショスタコーヴィチは1925年に、サンクトペテルブルク音楽院作曲科の卒業作品として交響曲第1番を作曲(19歳)。翌年のオーケストラ版演奏の成功により、「現代のモーツァルト」と喧伝されることになります。
シェーンベルクや弟子のヴェーベルン、ベルクらが「十二音技法」で作曲を始めたのが1920年代。西洋音楽史の新しいページが開かれつつある時期です。
シベ7の作曲経過
シベリウスは50歳の1915年に交響曲第5番、1923年に第6番を完成。第7番はそれと並行して書き始められました。交響曲第5番のスケッチブックにアダージョのモチーフが現れてから10年近く。それは彼の頭の中でゆっくりと成熟・拡大し、第7交響曲のもとになります[注1]。
1917年にロシアからの独立を果たしたものの(《フィンランディア》の初演から17年!)、その後、市民同士が戦うフィンランド内戦が起こります。心痛でシベリウスは体重が20キロも減りました[注2]が、1918年5月に内戦終結。
シベリウスは1918年5月20日付のアクセル・カルペラン宛の手紙に、シベ7について以下のように書きます[注3]。
第7番は人生の喜びと生命力に満ちあふれ、情熱的な部分も伴うでしょう。3つの楽章からなり、フィナーレは 「ヘレニック(ギリシャ的な)・ロンド」の予定です。[中略]第6番と第7番に関しては、楽想次第で計画が変わるかもしれません。
3楽章構成から単一楽章構成へ
1920年代初頭のスケッチを見ると、シベリウスは第7番を4楽章でデザインしていた痕跡が認められるそうです[注4]。しかし、1923年2月に再び第7番の構想を見直し、4楽章の中から第2楽章を取り出し、それに第1&第4楽章の一部を導入して単一楽章の構成にしたのだそうです[注4]。
1923年5月以降は、この構成で交響曲作曲に専念。1924年3月に予定されていたストックホルムでの新作披露の演奏会に間に合わせました。
完成段階のタイトルは、Fantasia sinfonica I(交響的幻想曲 I)。ストックホルムの初演や同年10月や11月の公演でも、このタイトルが使われました。
注
- The Music: Seventh symphony op. 105 (1924). Jean Sibelius - The Website. このコラムは、このサイトと注3のミニチュア・スコアの解説に基づきます。
- The Man: The war and the fifth symphony 1915-1919. Jean Sibelius - The Website.
- 神部智『シベリウス:交響曲第7番ハ長調作品105ミニチュア・スコア楽曲解説』音楽之友社、2019、iii。
- 上掲書、iii-iv。
- Finnish composer Jean Sibelius in 1923. "The last masterpieces 1920-1927." Jean Sibelius. Finnish Club of Helsinki.
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