明けましておめでとうございます。今年も聖フィル♥コラムをよろしくお願いいたします。
3月の聖フィル定期演奏会では、チャイコフスキーの交響曲第4番とラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を取り上げます。この2人のロシアの作曲家を、以下の3点について比べてみました。
1. 生まれた年
チャイコフスキーは1840年生まれ。ラフマニノフは1873年生まれ。なんと33歳も、年が離れていますね。亡くなった年は1893年と1943年ですから、ちょうど半世紀違います。
チャイコフスキーと年齢が近い作曲家としては、たとえば:
ムソルグスキー(1839〜1881)
ドヴォルザーク(1841〜1904)
リムスキー=コルサコフ(1844〜1908)など
一方ラフマニノフと年齢が近いのは:
ラヴェル(1875〜1937)
などです。ちなみにマーラーは1860年、ドビュッシーが1862年生まれ。それより後のラフマニノフって、かなり最近の人ですね。
2. 音楽家としての出発
チャイコフスキーは19歳で法律学校を卒業。法務省に勤めながら帝室ロシア音楽協会で音楽を学び始めます。この協会は1862年に、ロシアで最初の専門的な音楽教育機関であるペテルブルク音楽院に改編され、チャイコフスキーも一期生に。
翌1863年、彼は23歳で法務省の仕事をやめ、音楽に専念することになります。
ペテルブルク音楽院時代のチャイコフスキー、1863 |
一方のラフマニノフは、1883年に10歳でそのペテルブルク音楽院に入学しますが、2年後の学期末試験で全ての科目に落第。音楽事典によるとその理由は[注1]:
→ジフテリアの流行でラフマニノフの妹ソフィヤが亡くなる
→両親の関係がさらにこじれ、別居することになる
→母親は家事の負担が増える
→ラフマニノフの宿題を十分に指導することができなくなった
→そのため、全ての一般科目に不合格
ラフマニノフはサンクトペテルブルク音楽院からモスクワ音楽院に移ることになりました。
10歳のラフマニノフ |
3. 母国における評価
チャイコフスキーは(初めはあまり評判が良くなかった、あるいは初演が大成功というわけではなかった曲は多いものの)、帝政ロシア時代を代表する作曲家のひとりとして高く評価されています。
一方のラフマニノフは革命後にロシアを出て、ヨーロッパやアメリカで暮らしました。普段はロシア政権に関するコメントを避けていた彼ですが、1931年1月12日にニューヨーク・タイムズ紙に連名で、ソ連の様々な政策を批判する書簡を送りました。
これに対して同年3月9日にモスクワの新聞 Vechernyaya Moskva が痛烈な攻撃を加え、ロシア国内でのラフマニノフの作品の演奏と研究が禁止されることに。
ただ、この禁止措置はわずか2年しか続かず、1933年に彼の音楽は支持を回復しています[注2]。
注
- Norris, Geoffrey. "Rachmaninoff, Serge" in The New Grove Dictionary of Music and Musicians, 2d ed., ed. S. Sadie and J. Tyrell (London: Macmillan, 2001), 20: 707-718, 708.
- Ibid, at 712.
- Rachmaninoff in 1921, Kubey-Rembrandt Studios (Philadephia, Pennsylvania). Tchaikovsky as a student at the St. Petersburg Conservatory. Photo, 1863, unknown author. Rachmaninoff at age 10 in Saint Petersburg, Russia, unknown author.
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