ヨーゼフ・ハイドンの交響曲第101番《時計》は、ザロモン交響曲のうちのひとつ。
ザロモン交響曲とは?
ハイドンがヨハン・ペーター・ザロモンの演奏会のために、1791〜1795に作った交響曲。ザロモンはハイドンをロンドンに迎え、演奏会シリーズを開催します。ザロモン・セット、ロンドン交響曲とも呼ばれ、93番から104番まで全部で12曲。
ザロモンってどんな人?
生まれはドイツのボン
ベートーヴェンの生地として知られているボンに、1745年に生まれました。ザロモンが生まれたBonngasse 515は、偶然にも後にベートーヴェンが生まれた家だそうです[注1]。
父親フィリップ・ザロモンは、ボンでオーボエ奏者として活躍し、その後ケルン選帝侯の宮廷音楽家になりました。息子のザロモンも、1758年8月30日、わずか13歳で有給の宮廷楽団のヴァイオリニストとして任命されました。
ということは、単にベートーヴェンと同じ町(の同じ家)の生まれというだけではありませんね。
ベートーヴェンの祖父、父と同職だった
1712年生まれのベートーヴェンのおじいさんルートヴィヒは、1761年からケルン選帝侯の宮廷楽長でした。また、1740年ころ生まれた父親ヨハンは、1752年から宮廷歌手をしています(初めボーイ・ソプラノ、後にテノール歌手)。
ベートーヴェンの父親よりも5歳若いザロモン。ベートーヴェンの父や祖父と同時期に、同じ宮廷楽団で活動していたことになります。
後にザロモンと仕事をしたベートーヴェンは、ザロモンが1815年に亡くなった後、
ザロモンの死は私をひどく悲しませた。なぜなら彼は、私が子どものころから知っている人のうちで最も偉大な心の持ち主だったからだ。
とフェルディナンド・リースに書き送っています[注2]。
ヨハン・ペーター・ザロモン |
優れたヴァイオリニストだった
ザロモンは1764年夏までに、プロイセン公ハインリッヒの宮廷楽団にコンサートマスターとして迎えられました。
ベルリンではカール・フィリップ・エマヌエル・バッハと出会い、彼を通じてその父ヨハン・ぜバスティアン・バッハの《無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ》に親しみました。イギリスに渡ってからもレパートリーとし、模範的な演奏をしたと言われています。
プロイセン公宮廷楽団の解散後、パリでヴァイオリニストとして名声をあげました。1781年にはイギリスに渡り、独奏や弦楽四重奏などで活躍。
その後、次第に演奏活動からコンサートの企画興行に力を注ぐようになり、国際的な演奏家を招いた演奏会を開きます。ザロモンは演奏会で、オーケストラのコンサートマスターとして活躍。彼のストラディヴァリウスは、以前コレッリが使っていたものだったそうです[注3]。
目端の利く興行師だった
ザロモンの最大の功績は、ハイドンに最後の12曲の交響曲を注文し、彼をロンドンに招いて初演したこと。ザロモンはどうやって、ハイドンに招待を承知させたのでしょうか(以下続く)。
注
- Unverricht, Hubert. "Salomon, Johann Peter," in The New Grove Dictionary of Music and Musicians, 2d ed., ed. S. Sadie and J. Tyrell (London: Macmillan, 2001), 22: 172-173. 以下もこの情報に寄ります。
- 大宮真琴『ハイドン新版』音楽之友社、1981年、120ページ。
- 同上、125ページ。
- Portrait of Haydn by Thomas Hardy (1791). Johann Peter Salomon: portrait by Thomas Hardy (1790-92). 「ハイドンとザロモン交響曲」から改題しました。
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