028 リストの生涯③:リストと愛人マリー・ダグー

2022/10/25

ピアノ ベートーヴェン リスト

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1832年の終わりころ、リストはマリー・ダグー伯爵夫人(1805〜1876)を紹介されます。

マリーは、フランス亡命貴族の父と銀行業で財を築いたベスマン家出身の母の元に、フランクフルトで生まれました。1827年に、15歳年上のフランス軍騎兵将校シャルル・ダグー伯爵と政略結婚し、2人の娘が生まれています。

このとき、マリー28歳、リスト22歳。

スイスへの逃避行

初め、彼らは関係を隠していましたが、183412月、マリーの6歳の娘ルイーズが亡くなり、マリーは家族をおいてリストの元へ。彼らはスキャンダルから逃れるため、スイスへ向かいます。バーゼルを経てジュネーヴに落ち着き、リストは新設のジュネーヴ音楽院でピアノを教えることに。

春から秋にかけて彼らはスイスの田舎を訪れ、リストは後にその印象をピアノ曲《巡礼の年:第1年スイス》に再編成することになります。

183512月に長女、183712月に次女、18395月に長男が生まれました。次女は、後にハンス・フォン・ビューローとヴァーグナーの妻になるコジマです。

コンサートへの復帰

1837年夏からはイタリアに滞在。翌1838年の春、ヴェネツィアに滞在していたとき、新聞で故国ペストの洪水被害を知ります。ドナウ川が氾濫し、家屋や農作物が被害を受け、飢饉が発生。

18384月、リストは洪水の被害者救済のために、ウィーンで10回のリサイタルを開きます。リストが正式にコンサートに復帰したことを示すこのリサイタルは、多くの人の関心を集めました。若い頃の師、チェルニーも聴きに来ています。

リストはこれらのコンサートで、ハンガリーに送られた民間からの最大の寄付金である24,000グルデンを集めました。

1839年秋、ベートーヴェンの生地ボンに銅像を建てる計画が、資金不足により頓挫しかかったときも、リストはコンサートを通じて資金を調達することを申し出ました。

現在ボンにある、ベートーヴェン生誕75年の18458月に除幕されたエルンスト=ユリウス・ヘーネル制作のベートーヴェン・モニュメントは、リストの個人的な貢献によって実現されたと言えます。


その後のふたり

この時期、マリー・ダグー夫人との関係が終焉を迎えます。彼女はパリに戻り、子どもたちは祖母であるリストの母のもとへ。ピアニストとしての華やかに活動する傍ら、リストはパリにいるときはいつも彼らに会いに行き、経済的にも責任を持ちました。

1844年、新しい愛人が世に知られるようになると、マリー・ダグー夫人との決裂は決定的に。その後16年間、彼らが会うことはありませんでした。

マリーはダニエル・ステルンというペンネームで、自分をヒロインとする小説『ネリダ』を書いています。リストを非力な画家として描くこの実話小説は1846年に初出版され、スキャンダルを起こしました。

  1. このコラムは以下の情報に基づきます。WalkerAlan. "Liszt, Franz," in The New Grove Dictionary of Music and Musicians, 2d ed., ed. S. Sadie and J. Tyrell (London: Macmillan, 2001), 14: 755-877.

  • Portrait of Liszt by Henri Lehmann (1839).  Beethoven Monument in Bonn from WikiCommons.

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聖光学院管弦楽団 第26回定期演奏会

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