聖フィルの次回定期演奏会では、ジャック・イベールの《モーツァルトへのオマージュ》を取り上げます。イベールは1890年パリ生まれ。プーランクよりも9歳年上ですね。1910年にパリ音楽院に入学し、和声学や対位法、作曲を学びました。
音楽院で対位法(だけ)を教えていたアンドレ・ジェダルジュは、優秀な学生のために管弦楽法のプライベート・クラスを組織[注1]。イベールはそこで、「6人組」のオネゲルとミヨーに出会いました。タイユフェールやオーリックもパリ音楽院で学んでいます。
ほぼ同時代にパリで音楽を作っていた彼ら。
なぜイベールは、「6人組」に入らなかったのか?
そもそも「6人組」は、音楽的・美学的な思想を共有することで結束していたのではありませんでした。「のんきに楽しく、友情と音楽によって緩やかに結ばれていただけ」[注2]。
詩人ジャン・コクトーのお膳立てでいつのまにか「6人組」という名でデビュー。6人全員による共同プロジェクトは、1820年に発表されたピアノ小品集《6人組のアルバム》ひとつだけです。
このような緩さであれば、イベールも参加できたはず。彼が加わって「フランス7人組」にならなかった理由は?
緩さは関係ありません。仮にイベールが「6人組」に加わりたいと望んだとしても、彼の置かれた状況では一緒に活動することは難しかったはずです。というのは、
この時期イベールは、あまりパリにいなかったから
第1次世界大戦(1914〜1918)が始まると、イベールは前線で看護士、担架手として活動。さらに、海軍士官としてフランス国土最北端のダンケルクに駐屯しました[注3]。
この従軍で音楽活動を4年間中断したのにもかかわらず、1919年には1回目の挑戦でローマ賞(ローマ大賞とも)を獲得。翌年から1923年まで、国費でローマに留学しています。
1922年、ピエルネ指揮コロンヌ管弦楽団により、オスカー・ワイルドの同名の詩に基づく管弦楽曲《レディング監獄のバラード》が初演されました。1924年には、交響組曲《寄港地》がパレ指揮ラムルー管弦楽団により初演。この2曲の成功により、フランス国内外で急速にイベールの名が知られるようになりました。
《レディング監獄のバラード》って全く知らなかったので、動画を探してみました。3曲から成り、1曲目は 〈Il n’avait plus sa tunique écarlate〉(直訳すると、「彼はもはや緋色のチュニックを持っていなかった」)。初演を指揮したガブリエル・ピエルネに献呈されています。
イベール:《レディング監獄のバラード》第1曲
注
- Laederich, Alexandra. "Ibert, Jacques ," in The New Grove Dictionary of Music and Musicians, 2d ed., ed. S. Sadie and J. Tyrell (London: Macmillan, 2001), 12: 42.
- 遠山菜穂美『プーランク:シンフォニエッタ、ミニチュア・スコア解説』全音楽譜出版社、2020、pp.5-6。
- Laederich, Alexandra. "Ibert, Jacques ," in The New Grove Dictionary of Music and Musicians, 2d ed., ed. S. Sadie and J. Tyrell (London: Macmillan, 2001), 12: 42.
- Louis Silvestre (photographer). https://youtu.be/hlpFhCivkGw Adriano, Slovak Radio Symphony Orchestra.
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。