次回3月の聖フィル定期演奏会では、ヴェーベルン編曲によるバッハの《音楽の捧げもの》より6声のリチェルカーレを取り上げます。
アントン・ヴェーベルンは、1883年に生まれ1945年に亡くなったオーストリアの作曲家、指揮者。アルノルト・シェーンベルクに、彼が開発した12音技法、すなわち体系的に無調音楽を作る技法を学びました。
ヴェーベルンが正式にシェーンベルクに師事したのは、1904年夏から1908年末まで。しかしヴェーベルンは生涯にわたりシェーンベルクに献身し、音楽事典のなかに「その熱烈な尊敬は、時には恋愛に似ており、時には崇拝に似ていた」と記述されています[注1]。
12音技法で有名なヴェーベルンが、なぜバッハのリチェルカーレを編曲したのでしょう?
音楽学を専攻した大学時代
理由は、彼の大学時代に見つかりました。1902年ウィーン大学に入学したヴェーベルンは、グイド・アドラーに音楽学を学びました……と読んでびっくり!!! 音楽学は私の専門。グイド・アドラーは高名な音楽学者です。なんとヴェーベルン、大先輩(!?!)だったんですね!!!
しかも、博士論文はイザークの《コラリス・コンスタンティヌス Choralis constantinus》について!!!
イザークの《コラリス・コンスタンティヌス》
オケ奏者の皆さんにはあまり馴染みが無いかもしれませんが、ハインリヒ・イザーク Heinrich Isaac は1450〜55年頃にフランドルまたはブラバントに生まれ、1517年フィレンツェで没した作曲家。
インスブルック宮廷やフィレンツェのメディチ家、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世に仕え国際的な名声を得た、フランドル楽派のひとりで、《インスブルックよ、さようなら》というリートが有名です。
《コラリス・コンスタンティヌス》は、1年分のミサ固有文をひとまとめとして(つまり、年間の礼拝に必要な音楽をセットで)、ポリフォニーで作曲する最初の試み。イザークは完成前に亡くなり、弟子のルートヴィヒ・ゼンフルが完成させました。グレゴリオ聖歌に基づく375曲ものモテット集です。
全3巻中の第2巻に関する論文で、1906年に音楽学の博士号を取得! 博士論文の一部として現代譜化した《コラリス・コンスタンティヌス》第2巻は、オーストリアの歴史的音楽コレクション Denkmäler der Tonkunst in Österreich(DTÖ、タイトルの直訳は「オーストリアの音楽芸術の記念碑」)第32巻に収められています。
ドイツにおけるイザークの影響
フィレンツェでの活動も長かったのですが、ドイツ語圏に住んで、ハプスブルク家と顕著なつながりを持っていたイザークは、ドイツ音楽の伝統に大きな影響を残しました。
イザークを通じて、フランドル楽派のポリフォニーがドイツで広く受け入れられるようになり、その後の対位法音楽の発展を可能にしたからです。
というわけで、謎が解けました。若い頃、イザークのポリフォニーを研究したヴェーベルンが、その約30年後にバッハのポリフォニーに立ち戻っても、それほど不思議ではありませんね。
音楽学専攻というだけでなく、私の専門と同じルネサンスの作曲家イザークの音楽を、同じように博士論文で現代譜化しているヴェーベルン。個人的な話で恐縮ですが、急に親近感が湧いてきました!!!
これは、ヴェーベルンが研究し楽譜を編纂した《コラリス・コンスタンティヌス》第2巻の巻頭曲の第1部、〈Puer natus est nobis(幼子が我らに生まれた)〉です。バッハまで連綿と続く、ポリフォニックな書法とその響きをお楽しみください。
Puffett, Kathryn Bailey. "Webern, Anton (Friedrich Wilhelm von)" in The New Grove Dictionary of Music and Musicians, 2d ed., ed. S. Sadie and J. Tyrell (London: Macmillan, 2001), 27: 179-195, 179.
Anton Webern in Stettin, October 1912. https://youtu.be/ZKq8PHx1NsQ?si=RbytepRUB9pbE5QU Heinrich Isaac: Puer natus est nobis.
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